彼は会社を早退した。
「何だか気分が悪くて。吐き気がするんです」
彼がそういうと、課長はぎろりと上目づかいに彼を見た。それから「またか」とい
う顔をして、黙って「早退願」を受け取った。一時間半前のことだ。そうして、彼は
いま自分の家の居間のソファにすわっている。午後の半端な時間で、妻も子供たちも
まだ帰っていない。彼はあくびをした。
気分が悪いというのは本当だった。朝、これから会社に行くのだと思うだけで気分
が悪くなる。同僚たちに「おはよう」「おはようございます」と声をかけられるたび
それはますます募り、タイム・カードを押して自分の席に着くころには頭ががんがん
している。電話のベルの音、ボールペンのインクの臭い、誰かが椅子をきしませる音
あらゆるものが彼に吐き気を催させる。半日がまんできたのは奇跡のようなものだ。
「いいじゃないか。早退くらい。毎日というわけじゃないんだし」
彼は伸びをした。いまはうそのように気分がよかった。ひとりでいるということは
何と心安らぐものなのか。いつもならこうはいかない。玄関のドアを開けるやいなや
子供たちの叫び声とテレビの音、それに妻が子供たちを叱る声がわっとばかりに押し
寄せてくる。換気扇はぶんぶん回り、鍋や皿はがちゃがちゃ鳴り、全自動洗濯機はく
ぐもったうなり音をたてている。食卓に着いた彼のそばで、妻が金切り声をあげる。
「もう! ちゃんとかたづけなさいって何度言ったらわかるの? ママだって疲れて
いるんだから! ちゃんと元通りの場所にかたづけなさい。いったい誰に似て、そん
なにだらしないの。整理整頓ができない人間なんて、最低よ!」
ひどい理屈だ。そんなことで簡単に「最低」のラベルを張られるなんて。確かに家
の中はほうっておけば散らかり放題だし、子供たちのそういった性格は彼に似たのか
もしれない。彼は普段から課長にいやというほど資料整理の必要性を聞かされていた
が、机の上も引き出しの中もまるでくずかご同然だった。だが、彼にいわせると、そ
れは単に配置ミスの問題だった。一年前、彼は営業部にいて、車で得意先をまわった
り新規スポンサーを開拓したり、時には適当にさぼったりして愉快に仕事をしていた。
それがなぜか突然内勤の仕事を命じられた。だれが見たって彼に向いていないことは
わかりきっているのに。多分そのころから、彼の頭はがんがんするようになったし、
吐き気も起こるようになったのだ。
彼は妻の顔を思い浮かべた。皮肉なことに、妻はおそろしくきちょうめんだった。
仕事のせいもあるのかもしれない。妻は市立図書館に勤めている。分類したり整理し
たりするのが仕事なのだ。そんな仕事のどこがおもしろいのか、彼には理解できない
が、所詮やりたい人間にはやらせておけばいいのだ。彼自身は生き方を変えるつもり
はなかった。人生はあいまいなものだ。この世が簡単に分類できるなら、記号を書い
たラベルを張って整然と並べられるものなら、誰も苦労などするものか。
彼は冷蔵庫から缶ビールを出し、飲んだ。それから少しうとうとしたらしい。ドア
・チャイムの音が夢の中で聞こえた、と思ったらそれは夢ではなかった。庭につない
だ犬の吠え声も聞こえた。彼はのろのろと玄関に向かった。

ドアを開けるとスーツを着た男が立っていて、にこやかな笑顔を向けた。なんだ、
セールスマンじゃないか。彼は後悔した。馬鹿正直にドアを開けるんじゃなかった。
するとセールスマンは、彼の心を見透かしたかのように言った。
「後悔なさることはありません。私は決してあなたの貴重なお時間を無駄にするため
に来たのでも、あなたを失望させるために来たのでもありません。一人でも多くの方
に、より豊かな人生を味わっていただきたい。今日はそのためのご説明にあがりまし
た」
「宗教の勧誘ならお断りだぜ」
「とんでもございません」
男はにたりと笑うと彼に背を向けてかがみこんだ。気がつかなかったが、大きなキ
ャスター付きのスーツケースがそこにあって、男はその中から商品らしきものを取り
出した。黒っぽい箱型の機械で、見たところハンディタイプのビデオカメラといった
ところだった。
「その通り、これはビデオの一種といえますが、市販されているようなものではあり
ません」
男はまた彼の考えていることを見透かしたように言った。犬がやかましく吠えたて
ていた。何の芸もできない馬鹿な犬だ。
「どんなふうに違うんだね」
「ビデオの機能は現実を映像に変え、それをいつでも好きな時に取り出してみられる
ということです。私どものこの商品は---システム13と呼んでおります。試作に試作
を重ねまして、やっと十三番目にして満足できるものができたという意味で、あくま
で仮称ですが---それをまったく理想的な水準にまで高めたものなのです」
「よくわからないな」
「ちょっと実演させていただきましょう」
男は機械を構え、庭のほうに視線を向けた。
「例えばあの犬。吠えたてるだけで何の取り柄もない。近所迷惑でもある」
そう言いながら男は庭に出ていった。犬の鳴き声ははこれまでにないほど激しくな
ったが、やがてぴたりとやみ、あたりは突然の静寂に包まれた。不安な気持ちで彼が
窓から庭をのぞくと、空の犬小屋のそばにえさの容器が転がっているだけで、犬はど
こにもいなかった。セールスマンがにこやかな表情で戻ってきた。
「犬はどこにやったんだ」
「ご心配いりません。いま、再生してお目にかけましょう」
男はさっさと家の中にあがりこみ、機械からカセットのような物を取り出して、慣
れた手つきで彼の居間のテレビにセットした。画面にさっきまで庭で吠えたてていた
犬が現れ、やかましく吠えた。セールスマンはリモコンの音量調節ボタンで音量をど
んどん絞った。画面は無音になり、犬はただ首をがくがくさせているだけになった。
「このように、うるさいと思えば静かにできるのもビデオ映像なればこそです。現実
の犬はこうはいきません」
「なるほど。文字通り、現実を映像に変えるってわけだな。だが、うちの犬を勝手に
テレビの中に押し込めていいとは言わなかったぜ」
「もちろん、いつでも元に戻すことができます」
セールスマンはビデオを止め、カセットを巻き戻して機械に納めた。それからボタ
ンを二つぽんぽんと押すと、ひとりうなずいて彼に言った。
「窓の外をごらんください」
外をのぞくと、犬小屋のそばに犬がきょとんとした表情であたりを見まわしていた。
「本人は---この場合は犬ですが---自覚症状はありません。自分がさっきまでこの
現実世界に存在していなかったということに気付くことはないのです。人間でも同じ
です。後遺症の心配がないことも確認されています。」
「信じられない。すごい発明じゃないか」
「気に入っていただけましたでしょうか」
「もちろんだ。これがあれば…自由が楽しめるというわけだ」
「さようでございます。人間だれしも一人では生きられませんが、時には一人になり
たいものです。どんなに愛しあっている者どうしでもそれは同じこと。誰かと一緒に
いたいという願望と一人でいたいという願望、この相矛盾した感情を持っているのが
人間であり、それは決してお互いに我慢しなければいけないとか、悲劇的な結末を選
び取らなければならないものではないはずです。私どものシステム13は、この矛盾を
矛盾のまま受入れ、しかも個人が尊厳を持って快適に生活することができるよう研究
を重ねた結果、生み出されたものなのです」
おれの理想だ。こいつはただのセールスマンのくせに、何もかもわかっていやがる。
彼はある種の感動に襲われ、まぶたが熱くなった。
「それは…ずいぶんするんだろうな」
「はい。残念ながら一般のビデオカメラやファミコンと同じようなわけにはまいりま
せん。将来大量生産されることになれば、大幅な価格の下落ということもありましょ
うが、現時点ではまだまだ予測不能です。つまり、このシステム13が広く世間に行き
渡ることがどういう意味を持つかということもわれわれにはわかっていないからです
本来、市民権を得られるようなものではないという見方もあり、だとすると、今後と
も限定生産、高価格の品であり続けるでしょう」
「わかるよ」
彼はうなずいた。少しがっかりした。
「がっかりすることはありません。私が今日お邪魔したのは、実は特別試用キャンペ
ーンのお知らせのためなのです」
「特別試用キャンペーン?」
「はい。本日から三日間、無料でお使いいただけます。もちろん市場での反響を探る
ためのものですが、はじめにも申しました通り、私どもといたしましては一人でも多
くの方に幸せになっていただきたい。そこで、特にこの製品を必要とされていそうな
お宅を選んで、ご訪問させていただいているわけでして…」
その夜、彼は満ち足りた気分で居間のソファにすわっていた。
家の中には彼一人だった。際限もなくはしゃぎまわる子供たちのかん高い声、床を
飛び跳ねる音、それを叱る妻のヒステリックな声。彼はいまそれらから解放されてい
た。目の前のテレビ画面には彼が以前から見たいと思っていながら見られなかったシ
リーズもののドラマが映しだされていた。サイド・テーブルには缶ビールとサラミ、
それにピーナッツ。読みかけの雑誌。何も特別にぜいたくなものがあるわけではない
ささやかな幸せ。そう。だが、このささやかな幸せってやつが、現実にはなかなか得
られないのだ。
あのセールスマンが帰った後、彼はさっそく「システム13」を使って犬を「録画」
した。それからおよそ一時間後、小学校三年になる下の娘が帰ってきた。少し遅れて
小学校五年になる上の娘が帰ってきた。彼は二人まとめて録画した。夕方には妻が
「あら、早いのね。子供たちは?」とか言いながら帰ってきた。それからすぐに着替
えてエプロンを着け、夕飯の支度を始めた。妻もやがて、録画された。だから、いま
彼の家族と犬はすべてシステム13のカセットの中にいる。
ドラマが終わった。CFがそれに続き、画面は次から次へと目まぐるしく変化した。
彼はふと思いついてテレビ放送を止めた。それからシステム13のカセットを取り出し
て、再生した。画面に彼の子供たちが現れ、けたたましい声をあげた。彼はあわてて
音声を消した。静かになったテレビの中で子供たちは口をぱくぱくさせ、音もなく走
り回った。彼はピーナッツをぽりぽりと食べながら、それを眺めた。そうやって見て
いると、下の娘の口元が自分そっくりなことに気がついた。特に笑った時の口元が…
まぶしいものでも見るかのような目つきも似ている。しかし、上の娘も赤ん坊の頃は
自分に似ているといわれたものだ。どこだろう。二重瞼の目か。強情そうな鼻か。彼
の口元にはいつしか笑みが浮かんでいた。何だかとても穏やかな気分だった。かわい
い---そんな言葉さえ口にしそうになって、彼は少し驚いた。彼はカセットをいった
ん取りだし、かわりに妻を録画したカセットを入れた。すぐに画面に妻が現れた。怒
った顔で口を激しくぱくぱくさせている。いつもこの調子なんだ。彼は吹き出した。
不思議だった。いつもなら妻がヒステリーを起こすと彼の頭はたちまちがんがんし始
め、顔をみるのも嫌なのに、テレビの中の妻はむしろかわいかった。
「何をやっても一生懸命になってしまうんだ、あいつは」
彼はつぶやいた。それから、昔のことを思い出した。子供がもっと小さかった頃。
子供がまだいなかった頃。彼女と初めて会った時のこと。彼女と会う前のこと。昔は
なんと身軽だったことだろう。おれはずっと、身軽な人生が理想だと思ってきた。例
えていえば、ボストンバッグ一つで世間を渡り歩くという感じだ。ものはたくさんい
らない。家族もいらない。いざという時にじゃまになるだけだから。いつでも店じま
いできて、いつでもやり直しができる。そんな生き方をしたいと思ってきた。だのに
彼は室内をみわたし、身軽な人生どころか、自分がすっかり根っこを生やしてし
まっていることを認めざるを得なかった。
彼はテレビを見た。相変わらず妻が口をとがらせて何かを必死で叫んでいた。彼は
そんな妻がいとおしかった。二人の子供たちもいとおしかった。でも、彼は家族を現
実世界に戻そうとはしなかった。夜更けまで繰り返し、録画された家族を見ているだ
けだった。

翌日は祝日だった。彼は長い間会っていなかった友人たちをよんだ。午後になって
友人たちは一人二人とやってきた。
「やあ、ひさしぶりだな。家に招待してくれるなんて、どういう風のふきまわしだい」
「ちょっと見せたいものがあってね」
「何だかずいぶん散らかってるじゃないか」
わずか一日で家の中はひっくり返っていた。玄関には靴が乱雑に脱ぎ散らかされた
まま。流しには彼の使ったグラスや皿。テーブルの上は新聞と折り込み散らし、汚れ
たタオルや爪楊枝、スーパーのポリ袋などがごちゃごちゃになっていた。
「汚いけどその分遠慮はいらないぜ。女房も子供もいないんだ」
「ああそれで。今日は羽を伸ばしているってわけだな」
「散らかす楽しみってあるよな。独身のころは部屋の中は足の踏み場もないくらいだ
った。手を伸ばせば何でも取れるし便利なんだけど、良識ある人には理解してもらえ
ない」
みんな笑った。彼も笑った。愉快だった。冷蔵庫から缶ビールを出して、すすめた。
「飲めよ。そうだ。ピザの宅配でも頼もうか」
「いいなあ」
「何分で来るか、賭けようぜ」
「アイスクリームもついでに頼んでくれよ」
なごやかな雰囲気がひろがった。ひとしきり飲んだり食べたりが続いた後、彼はや
おらシステム13を持ち出した。
「なんだい、それは」
「ビデオのようだけど、それにしては変わったデザインだな」
「おいおい、まさか怪しげなビデオを観賞しようってんじゃないだろうな」
彼は笑ってカセットをセットした。テレビ画面に彼の妻が現れた。
「奥さんじゃないか」
「変わらないなあ」
「なあんだ。全然怪しげじゃないぞ」
みんな笑った。彼も笑いながら説明した。きのうやってきたセールスマンのこと。
特別試用キャンペーンのこと。彼の家族も犬も、いまはビデオの中にだけ存在するこ
と。その説明の間も、彼の妻は画面の中で口をぱくぱくさせていた。友人たちは次第
に真顔になり、彼とテレビとを交互に見つめていた。彼の説明が終わると、なんとも
いえない沈黙がその場を支配した。
「これは…」
一人がためらいがちに聞いた。
「ちゃんと、その…現実にもどせるんだろうな。簡単に」
「当然さ」
「だろうな。いや、だったらいいんだよ」
「心配症だなあ。ちょっとやってみせようか。えっと、『解除』するには…」
「しかし、いま突然奥さんに出てきてもらっても困るんじゃないか」
一人がそう言った。みんなわっと笑った。
「それもそうだな。じゃ、犬を出して見せるから」
彼は録画を解除するための二つのボタンを押した。それから窓のそばに行って外を
のぞいた。だが、彼は首をかしげてもどって来なければならなかった。

「どうしたんだ」
「ちょっと間違ったみたいだ」
彼はセールスマンが置いていった薄っぺらなマニュアルで手順を確認した。別に間
違っていないようだった。手元が狂ったのだろう。もう一度、彼は同じ動作をさっき
より慎重に繰り返した。だが、結果は一緒だった。庭の犬小屋の前には青いプラスチ
ック製のえさ入れが転がっているだけだった。急に世界がしんとした感じがした。彼
は何度も何度も同じことを繰り返した。事態はまったく変わらなかった。脇の下に冷
たい汗がにじんだ。落ち着け、落ち着け、と彼は自分に言い聞かせた。その時、友人
の一人が言った。
「おい、ここにこんなことが書いてあるぜ」
友人はマニュアルのあるページを広げて見せた。
解除ボタンのいずれかが不調の場合は、別の方法でも解除できます。詳しくはマ
ニュアルBを参照して下さい。
「マニュアルBって…何だ」
「これとセットになっていたんじゃないのか。このマニュアルの表紙には『マニュア
ルA』と書いてあるぜ」
「気がつかなかった。じゃあそのへんにあるんだろう。探さなきゃ」
「おれたちも手伝うよ」
家探しが始まった。ほとんどゴミの海と化した家の中で、ぺらぺらのマニュアル一
冊を求めて。だが、それは容易に見つかりそうになかった。
「どこに置いたか、ちょっとでも覚えていないのか。手掛かりというか…」
「そのセールスマンが置いていった名刺か何かないのか。連絡したほうがいいかもし
れない」
答えられなかった。そんなものがあったのかどうかも覚えていない。彼は泣きたく
なった。その時、友人の一人が緊迫した声で言った。
「おい、一番先に録画したのは犬だと言ったな」
「ああ」
「ちょっと再生してみてくれないか」
彼は言われるままにカセットをセットし、再生ボタンを押した。出てきた画面は砂
嵐がざあざあと吹き荒れているばかりだった。犬はどこにもいなかった。
「やっぱり」
「何がやっぱりなんだ」
彼は友人の手からマニュアルをひったくった。友人の指し示した箇所には次のよう
に書いてあった。
録画の連続保存時間は二十四時間を超えることはできません。二十四時間以内に
解除するか、オプションの長期保存専用カセット(※近日発売予定)をお使いくだ
さい。これを怠った場合の事態については当社は責任を持ちません。
頭ががんがんした。のどがからからだった。彼はいまは後悔の塊だったが、だから
といって、何がどうなるというものでもなかった。友人たちはなおも捜索を続けてい
たが、やがてそれも終りが来るだろう。
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