小さな台所に、コップはいた。

 コップはかすかな青みを帯びたガラスでできていた。完璧な円を連ねた薄

い胴部と、ずっしりした重みを感じさせる底部。毎朝台所の窓が開けられる

と、かごに伏せられたコップに朝日があたり、コップはきらきらと輝いた。


 ぼくほど美しいものはいないぞ!


 コップは幸せだった。


 コップはいつも念入りに磨かれた。

 スポンジに磨き粉がつけられ、きゅっきゅっと音を立てて、コップは磨かれ

た。他の茶碗や皿はそんなにていねいに磨かれないことをコップは知っていた。


 コップは幸せだった。


 コップにはさまざまな飲み物が注がれた。

 朝一番に冷たい水が注がれ、ごくごくと飲まれた。

 ワインが満たされたときもあった。

 きれいな色のついたソーダ水が注がれたときはあまりの美しさにわれながら

ほれぼれとした。細かな泡が一面につき、そのひとつひとつがみるみるうちに

ふつふつと消えていくのをコップは驚きとともに見ていたが、悲しくはなかっ

た。

 ソーダ水が飲み干されると、その後にはほとんど何の痕跡も残らなかったが、

それでもコップは念入りに磨かれた。そして、本当に何もなかったかのように、

コップは美しいガラス面を輝かせた。


 時には水とともに何かの薬がのまれた。

 うがいに使われることもあったし、水の量を計るのに使われたこともあった。

 そのつどコップは洗われ、かごに伏せられた。


 ある日、コップに、それまで見たことのないものが注がれた。

 コップは不思議な感覚を覚えた。その液体はコップの皮膚にまといつき、コ

ップとひとつになろうとするかのようだったから。

 それは真っ白なミルクだった。

 ミルクの入ったコップは室内を持ち歩かれた。ふと、壁にかかった鏡に映っ

た自分を、コップは見た。そこにはからだのほとんどが真っ白になった自分が

いた。コップはぼうぜんとした。


 コップは自分がいつもの自分とあまりに違うので混乱していた。でも、その

混乱の中には経験したことのない心地よさがあった。

 コップはミルクを抱きしめ、ミルクに抱きしめられた。ミルクはコップのす

みずみにまでからみつき、コップをうっとりさせた。

 ミルクが飲み干されたあとも、コップにはミルクの跡が残った。上から三セ

ンチくらいのところに白い輪ができ、透明さを誇ったガラスは白く曇り、底に

はわずかなミルクの溜まりができた。

 コップは、自分がまだミルクとともにいると感じた。

 そのまま何時間かが過ぎた。


 不意に荒々しい動きでコップはとらえられた。コップは流しに運ばれ、水を

かけられ、せっけんをつけたスポンジが近づいてくるのを見た。コップを恐怖

と悲しみとが同時におそった。

 ぼくは洗われてしまう!

 次にコップが持ち上げられたとき、コップは渾身の力をこめてからだをよじ

り、その身を空中におどらせた。


 ぱりん。


「あああ」

「どうしたんだい」

「割れちゃったの。コップ----手がすべって」

 
 流しにはいくつかの破片となったコップが横たわっていた。まだミルクの跡

を白く残したまま。


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