
あるところに女がいた。 女はひとりで暮らしていたが、もとは夫とふたりで住んでいた。その暮らしは 七年続いた。 なぜふたりが住むところを別にし、会うことも話すこともしなくなったのか、 女には思い出せなかった。それに、思い出したくもなかった。 私はそのうち、本当に夫のことを忘れてしまうだろう。まるで、そんな人がこ の世に存在しなかったように。 彼女はそんな日を待っていた。 ある日、女が道を歩いていると、何かが落ちているのが見えた。思わず腰をか がめて見ると、それは耳だった。 あの人の耳が、こんなところに落ちている。 間違うはずはなかった。七年もそばにいた人の耳だから。 女はそっと拾って、持ち帰った。 テーブルの上に耳を置くと、部屋がしんと静まる感じがした。 女はテーブルにひじをつき、耳を見た。それは左耳だった。すると、夫がいて その耳にさまざまなことを話しかけた日々が思い出された。 わかった、わかった。もう遅いから明日にしよう。 今日はどんなおしゃべりを聞かせてくれるんだい。僕の奥さん。 そうだよ。僕もそう思うよ。 女はため息をついた。そうして、明りを消すとベッドに入った。耳を、テーブ ルの上に残して。 次の日も、女はテーブルにひじをつき、パンをかじりながら耳を見ていた。耳 に向かって聞きたいことはいっぱいあるような気がした。どうして、あなたは。 なぜ、私たちは。なぜ、あなたたちは。女の胸には山ほどの「なぜ」があふれて 息苦しくなるほどだったが、彼女はパンのかけらといっしょにのみ下した。 その次の日、女はテーブルの耳に話しかけた。 今日、まつばぼたんが咲いたよ。 耳は黙っていたが、女の固くなっていた心が、少しほぐれたような気がした。 女は少しずつ耳に語りかけるようになった。 真っ白のふたごの雲が浮かんでいたよ。 レタスの中に小さな青虫がいたの。 とても、こわい夢をみた。 女は、ああこんなふうに、私が話しかけられるように、耳はあの日、道端に現 れたのだと思った。そうしたやりかたは、夫にふさわしいと思った。 夫を知る人はすべて、夫のことをやさしい人だと言った。一方、彼女はたいて いの人から、かんしゃくもちだと思われていた。それがあたっているかどうかな ど、だれにもわかるはずはない。 |

あるとき、女は耳に向かって話しかけていたが、何かが急にのどもとにつっか える感じがして、わあっと叫び出したくなった。悲しい、というのではない。さ びしい、のでもない。気がつくと、女は耳に向かって言っているのだった。 おまえなんか嫌いだ。 かさぶたになってしまえ! すると、耳からみるみる生気が失われ、縮こまって、乾いて、赤黒いかさかさ したものになった。 女はテーブルの上にかさぶたになった耳を残して、寝てしまった。 何日か、女は耳をそのままにしていた。それから、ふと思い出したように、手 でさわってみた。かさぶたの耳はいまにもくずれて幾枚かの薄片になってしまい そうだった。女は注意深くそれをテーブルから取り上げ、庭の南側に穴を掘って 埋めた。 半月ほどもしてから、芽が出た。 やがて、それはすくすくと大きくなった。そして、淡い灰色の幹をもつ木にな った。 「大きな木だな」 「大きいだけよ」 「何て木なんだ」 「知らないわ」 女がひとりで暮らす家に、男が訪ねて来るようになった。男は女と同じくらい の年で、太い腕と首をもっていた。少し前にこの街にやってきたばかりで、男の 素性を知る者はなかった。 「みんながおれのことをあやしげなやつだと思っている」 「そんなことはないわ」 男の声はざらざらとして、全身に突起のある何かの動物を思い出させた。 「あんたは夫に捨てられたのかい」 「どうしてそんなことを言うの」 「知らないよ。そうじゃないかと思っただけさ」 女は木を見上げた。木は不思議だ。どこからこの葉は、枝はやってくるのか。 「あんたはやさしいな」 「私が?」 男は耳の木の下で、女を抱きしめた。男のにおいが、彼女の鼻孔いっぱいに入 ってくる。 真夏の午後ひとりでいて、暑さにたまりかねた女はふと思った。 西日をさえぎる木陰があればいいのに。 すると、耳の木はゆらゆらと枝を伸ばし、広げ、そこにおびただしい葉を繁ら せた。 一夜明けてみると、女の家は耳の木の中にあった。枝は家をすっかりおおいつ くし、守るように繁っていた。ここちよい風が、葉むらを通して入ってきた。 木は秋口に青く堅い実をつけ、冬に近づく頃にはそれがそのまま熟して、砂の ような色になった。 「何かに似ていると思わない」 女は手のひらに実をのせて、言った。男は興味がなさそうに言った。 「別に。何も」 実は、耳にそっくりだと、女は思った。だが、自分が思うだけで、他人にはそ うはみえないのだろうか。 「おれは一旗あげたいんだ」 男はよくそう言ったが、何をするとか具体的なことは言わなかった。男のする ことはただ、時々ふらりと女の家にやってきては女の身体をすみずみまで愛する こと。それだけをくりかえした。 「うまい話があるんだ」 男は夜、女のかたわらで言った。顔のそばに、顔を寄せて。それは風が時折強 く吹く夜で、耳の木の枝はざわざわと鳴っていた。 「うまい話って」 「大金がころがりこむ。おれも、おまえも、いい暮らしができる」 「いい暮らしって」 「大きな家に住んで、いいものを食べて、ぜいたくな服を着る。みんながうらや ましがるような暮らしだ」 風が強まって、木の枝がざわざわと鳴った。 「それがいい暮らしなの」 「それがいい暮らしさ」 耳の木はますます枝を鳴らした。ざわざわっ、ざわざわっ。男が、何かを言っ た。だが、聞き取れなかった。まるで嵐のようだった。 うるさいっ! 女は心の中で叫んだ。すると、うそのように静けさが訪れた。風は遠くでかす かに吹いていたが、耳の木はそよぎもしなかった。 「あんたについていく」 「ほんとかい」 「この家を出たいの」 女はそう言った。本当は、「いい暮らし」などに少しも興味はなかったけれど。 |

どのくらい月日がたったのかわからない。 女はわずかな荷物の入った鞄を提げ、とぼとぼと歩いていた。 ここはどこだろう。 彼女の前には一軒の店があった。疲れ切った彼女はドアを押して入った。そし て、テーブルに着くと、パンとお茶を注文した。彼女はとても空腹だった。 もし女を知る人がいまの彼女を見たら、あまりのやつれように驚いたことだろ う。彼女はすっかりやせ、髪はつやを失い、化粧をする習慣さえなくしたようだ った。靴はほこりまみれで、おまけに、裸足だった。 女はパンを手で少しずつちぎって食べた。食べながら、さまざまなことを、雑 誌を拾い読みするように思い返した。「うまい話」と称する危険な仕事。ある日 突然何人もの険悪な目つきをした男たちがやって来て、男を連れて行ったこと。 男が行方不明になり、自分も息をひそめるようにしていたこと。それから、誰も 知った人のいない街から街へと逃げて歩いたこと。その間、いつも彼女は空腹だ った。彼女にはもう、硬貨一枚だって残っていなかったから。 女ははっとした。自分が一文無しだということを忘れていたのだ。ぼう然とし てテーブルを見たが、すでにパンとお茶は彼女の胃の中におさまり、空のカップ と皿があるばかりだ。彼女はあわてて鞄の中から財布を取り出したが、開けてみ るまでもなかった。彼女はパニックに陥り、そのことを気取られまいとしながら あるはずのないお金をあちこち探しまくった。どうしよう。どうしよう。すると 女の頭の上から声が降ってきた。 「まさか、金がないというんじゃないだろうな」 それはいつのまにかそばにやって来た店の主だった。主は小山のような巨大な 身体で、女を見下ろしていた。女はほとんど震えんばかりだったが、その時、洋 服のポケットを探っていた右手に触れたものがあった。彼女はそれを差し出して 言った。 「いいえ、お金は、あります」 言った瞬間に、彼女は愕然とした。自分の右手が差し出したものは、あの、砂 色をした耳の木の実だったと気づいたから。彼女は恥ずかしさで気を失いそうだ った。だが、 「なんだ。こんな立派なものを持っているんじゃないか」 店の主の声音ががらりと変わった。 女はむかし住んでいた家に向かって歩いていた。 あの店では、結局、パンとお茶を後何十回も注文できるくらいのおつりをもら うことができた。彼女はわけがわからなかった。そして、ポケットにはまだいく つもの砂色の実が入っていた。 遠くに家が見えたとき、女はほとんど足をひきずっていた。近づくにつれ、家 をおおうように繁る耳の木がはっきりと見えてきた。彼女はいっそうほこりまみ れで、ぼろぼろに疲れていた。 やがて女は耳の木の前に立った。はあはあと、肩で息をした。彼女は顔をくし ゃくしゃにした。どうして、どうして、あなたは。彼女は、しかし、それを口に はしなかった。彼女は、ただ次のように言った。 あんたなんか、消えてしまって。 すると、耳の木の枝という枝がいっせいにしなだれて、あたかも何かを悲しん でいるようにみえた。だが、それはごく短い間のことで、もしかしたら錯覚だっ たのかも知れない。一瞬後には、耳の木は影もかたちもなくなっていた。 |
