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Novels/小説  保存


 保 存

 

 彼は55歳であったが、激しい恋をした。
 このことはひとつの困難を意味する。なぜなら、彼の脳内ディスクは55年にわたる経験と学習の蓄積で残り容量がかなり減っているが、一方で激しい恋というものはそれ自体データ量が大変大きい。老後のことを考えると空きスペースがまったくないというのも不安だ。つまり、彼がこの激しい恋を保存するためには何かを捨てなければならないのだ。

 彼はすべての脳内データを検証してみることにした。
「連立方程式の解き方」の最終修正日は37年も前だ。削除してもよさそうだ。「台形の面積の求め方」「三角関数」「メンデルの法則」もまったく使われていない。ただし、削除してもそれによってできる空き容量が知れている。理科系科目が苦手でそれらを必要としない職業しか経験していない彼のような人間の場合、もともとの理解度も経験値も低いからだ。「元素周期表」「二次関数」「酸素と水素が化合して水ができるときの化学反応式」「対数」「ベクトル」等はほとんど言葉しか覚えていないという中身のないファイルなので、一切合切削除しても30キロ脳単位にしかならない。「小学校校歌」でも6キロ脳単位、「さかあがりのしかた」でも10キロ脳単位だというのに。
 それでも、少しでも空きをつくろうと彼は市販されている脳内ファイルイレイサーを使ってひとつひとつ削除していった。このようなツールがなかった時代ならいざしらず、いまはあるのだから使わない手はない。限られた脳内ディスクを有効に使うためには不可欠といえる。
 休日の一日をほぼ費やしてなんとか800キロ脳単位の空きをつくることに成功したが、これでは焼け石に水だ。適齢期で特に障害となる要素のない独身男女が出会い、いくつかのプロセスを経て性交渉に至る「平均的な恋愛」で1件5メガ脳単位、ゆきずりの相手と一時的な関係を持ち、ひと月後には名前さえ忘れているようなものでも0.3メガというのが相場だ。彼が現在渦中にある恋はそんなものではなかった。それまで何の縁もゆかりもなかった二人が出会った瞬間に恋におち、わけあっていまだ同居することができないものの、ほぼ一日おきの逢瀬は並の若者も及ばぬほどに燃え、離れているときは電話に手紙、メールとあらゆる手段を用いて思いを交わし合い、夜は夢に、昼は妄想の中に面影を求めあう。出会ってまだ3か月だが、データ量はすでに30メガを超えている。空き容量は200メガを切っているというのに。
 ワープロの使い方も削除した。麻雀のルール、苦労して覚えた「Sound Of Silence」の歌詞ももういい。前の会社で覚えた仕事の手順、つきあいのあった会社の名前や所在地、上司の癖や同僚のあだ名ももう必要ない。削除だ。それでも大した量ではない。彼はため息をつき、ふと、あるファイルに目をとめた。

 初恋 

 そのファイル名を見ただけでまぶたにモルタル造りの中学校の校舎が浮かび、耳にはチャイムの音が響き渡り、ざわざわと廊下にあふれる男女生徒の姿が視界にひろがり、その中の一人がまるでスポットライトをあてられたようにくっきりと浮かび上がった。こちらを見た。中田まゆみ。14歳で出会い、4年間をともに過ごした。今でも、まるで昨日のことのように思い出せる。その声。笑い方。制服に包まれた肩。かばんを提げて、少し左に傾きながら歩く癖。待ち合わせの場所に小走りでやってくる姿。際限なく浮かんできては彼を40年前に連れ戻そうとするイメージの群を必死で振り切り、彼は数値を見た。
 57メガ。
 でかい。これを削除すれば、ひと息つけるというものだ。彼は迷いを断ち切るように震える指でカーソルを合わせ、クリックした。その瞬間、彼は目をつぶった。再び開けると、赤い「!」マークとともに警告メッセージが表示されていた。

 このファイルを本当に削除しますか? 2754の依存ファイルがこの作業によって破損するおそれがあります。

 

 彼はうなだれ、恋人にわびた。
「大切なひとよ。僕を笑うがいい。僕はファイルひとつ削除できないなさけない男だ。それにしても初恋のファイルが当時の友人や先輩、飼っていた犬の名前や住んでいた街にリンクされているのはまだしも、現在の服や読書の好み、鼻をかむときの癖、さらに今の会社に就職することになった理由、任されている仕事にまでリンクしているとは思いもよらなかった。確かにそれ以後40年近く、僕はあの時代をひきずりながら生きてきたのだから当然かもしれない。もしそれを無視して削除すれば、いまの僕が僕でなくなるだろう。ああ、でも、君がそれを望むなら削除してもいい」
 彼より1歳年上である恋人はほほえみながら言った。
「私の大切なひと。何を思い悩むことがあるでしょう。そもそも、恋を保存しておく必要がどこにあるかしら? 脳の奥深くに保存された恋がそうでない恋にまさるなんて誰が決めたのかしら? あなたの未来において、何かを保存するためにスペースをつくる必要ができたら、迷わず私たちの恋を削除してちょうだい。私たちの恋は若いときの恋と違って何の依存ファイルもリンクも持たない、自由で純粋なファイルなの。過去も未来も関係なく、もっとも安心して削除できるファイル、それが私たちの恋じゃないの。余計なことは考えず、この恋を日々更新しましょう」
 彼は恋人の言葉に感動し、にわかに心が軽くなるのを感じた。その日彼は恋人といつにも増して濃密な時間を持ち、離れがたい思いを抱きながら帰路に着いた。そして、たぶん疲れていたのだろう、地下鉄のホームで一瞬足元をふらつかせて線路上に落ちた彼の上を列車が通り抜け、彼はあっけなく55歳の生涯を閉じた。脳内ディスクにはまだ200メガ脳単位近くも空きスペースがあったのに。



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