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Novels/小説  箸


泳ぐ男 


  ある日、鍋の蓋をとってみると、中で一人の男が泳いでいた。
 私はその時、ラーメンをつくろうとしていた。私はしばらく、左手でラーメン鍋の柄を持ち、右手で蓋を持ったままぼう然とした。
 せいぜい3センチにも満たない男だ。彼は濃紺の海水パンツを身につけ、悠然と鍋の海を泳いでいた。
 私はそうっと鍋に蓋をして女友達に電話をかけた。
「僕だけど」
「何か用?」
「鍋の中で、誰かが泳いでるんだ」
「ふうん」
 眠そうな声だった。よく考えると、真夜中といっていい時間だった。
「知らない人なの?」
「うん。まったく心当たりがない。そいつが、鍋の海の中を泳いでるんだ」
「どうして海ってわかるの? 川とか湖とか、もしかしたらプールかもしれないじゃない」 「あれは海だよ」
「クロール? 平泳ぎ?」
「クロール」
「何か困るの? その人がいたら」
「ラーメンができない」
「カップ麺にすればいいじゃない」
「そうするよ」
 電話を切ってから、どうしてあれが海だと自分は断定したのだろうと思った。なるほど人が泳ぐところは海だけではない。そこらの市営プールでも健康ランドの温水プールでもかまわないわけだ。彼女の疑問は至極まともなものだ。私は鼻毛を抜きながらそう思い、もう一度、鍋の蓋をとってみた。
 鍋のほぼ中央で、男はやはり泳いでいた。フォームはかなり泳ぎに自信のある人のそれで、腕の運び、足の動きのひとつひとつがなめらかで無駄がない。水しぶきはほとんど上がっていない。私はそのまま男を見守り続けた。私に見られても平気なのか、それとも見られていることに気がつかないのか、男の泳ぎは変わらない。
 不意に、男の顔のあたりがぴかっと光り、彼はまぶしそうな表情をした----ような気がする。それで気がつくと、波打つ水面には強烈な日光がふりそそぎ、ゆったりと移動する雲たちの影も、そこには映っていたのである。
 それはやはり海に違いなかった。どこか遠くの、途方もなく広い空の下の。

 次の日、私は苦心して戸棚の奥から別の鍋を探しだし、当分例の鍋は使わないことにした。
 探し出した鍋というのは蓋にばらの花の模様があるほうろう製のもので、やたら重い。それにラーメン鍋にするには明らかに深すぎた。だが、ぜいたくは言ってられない。他の鍋は全部、妻が出て行くときに持って行ってしまったのだ。
 私はその鍋でラーメンをつくってみたが、できあがったラーメンはとんでもなく水っぽい。やはり慣れていないせいで水の量を間違ったようだ。
 食べ終わった私は、例の鍋の蓋を開けてみる。ひょっとしたらもとの鍋に戻っているのではないかと思いながら。だが、私は裏切られる。
 鍋の中では当然のように男が泳いでいる。美しいクロールのフォーム。腕を水に入れ、大きくかく。のびやかな足がゆらゆらと上下に動き、それにつれて細かな泡の粒が男の体を包むように生まれ、消えていく。
 それにしても変といえば変だ。男はこんなに力強く泳いでいるのに、いつまでたっても鍋のまん中にいるなんて。あっという間に鍋の端に着いてしまうはずではないか。と考えたとき、世間にはいつまでも向こう岸に着かないプールがあるらしいことを思い出した。強い水流に逆らって泳ぐトレーニング用のもので、室内で走ったり歩いたりする装置と同じ類らしい。だが、鍋の中はおだやかで、とてもそんないじましい仕掛けがあるようにはみえなかった。男の泳ぎ方もトレーニングなんかとは無縁のものだ。それに、なんといっても、そこは海だった。

「まだいるんだよ」
 私は女友達に電話した。
「ラーメンはどうしたの」
「他の鍋でつくったよ」
「じゃあ問題ないじゃない」
 そう言われるとそんな気もした。
「テレビをみていたのかい」
 電話の向こうでにぎやかな音楽と笑い声が聞こえた。
「そう。テレビをみていたの」
 短い間があいて、テレビの音が小さくなった。
「こないだ、あんたの奥さんをみかけたわ」
「どこで」
「どこだっていいじゃない」
「どんなだった」
「相変わらずよ。何かつまらなさそうに歩いてた。あんたとどっか似ていて」
「ふうん」
 彼女はいつも怒ったようなもののいいかたをする。でも、私はそれが嫌いではない。

 ある時、私はいつものように鍋の中の男を見ていた。そのうち、ふと、この男をすくってみたくなった。金魚すくいの金魚のように。
 たちまちのうちに私の中に想像がひろがった。眼の前で何も知らずに泳いでいるこの男を、すくいとる。男はあわて、もがき、水がぱしゃぱしゃとはねる。自分の身に何が起こったか理解できない。私は指先で、キーホルダーの人形ほどしかない男をつまみあげる。男のよくしまった身体は、私にぷりぷりとした弾力を伝えるだろう。男は私の指の中で、なおも暴れ、手足をばたばたと動かすだろうが、それはせいぜい私をくすぐったがらせるほどのものでしかない…。
 私は台所で網杓子を探した。妻がいた頃、よくあれでかつお節をすくっていたような気がする。しかし、あちこち探してもそれは見つからず、かわりに湯豆腐の時に使う穴の開いた玉杓子が出てきた。
 私は穴開き玉杓子を右手に持ち、鍋の前で身構えた。鍋の中では、もう見慣れた例の男が優雅ともいえる泳ぎ方で、休むことなくさざ波を立てていた。私はわくわくする思いで、玉杓子を水面にさっとすべらせた。次の瞬間には男はぴかぴか光る玉杓子の上でパニックに陥ってる----はずだった。だが、そうではなかった。男は何事もなかったかのように鍋の中ですい、すい、と泳ぎ続けていた。玉杓子は空で、水のしずくさえ垂れていなかった。
 その後何度か、私は男をすくおうと試みた。そして、すべて徒労に終わった。私は悟らずにはいられなかった。すなわち、彼----鍋の中の男----は存在していないのだということを。彼は、見えてはいるが存在しないのだ。私はがっかりした。人類初の「人間すくいをした男」になるはずだったのに。
 そのかわり、といっては変だが、私は虫眼鏡を持ち出して男を子細に観察することを始めた。どうせ存在しないのだから、じろじろ眺めても怒り出すこともないだろうというわけである。
 彼はなかなかに「濃い」タイプの二枚目だった。顔のつくりがはっきりしていて、眉が太い。胸板は厚く、腕が太く、反対に尻は小さく引き締まり、要するに立派な身体つきである。それがいつも泳いでいるせいか、もともとそういう体型なのかはわからない。胸はうっすらと黒い毛で覆われており、そういえばあごのあたりも何となく黒っぽいが、それは不精髭というよりは、いくら剃っても剃り切れないものが残っている、そういう感じだ。ふと、そのあごのあたりのうっすら黒い感じが一部途切れて見えるのに気がつき、私はいっそう近づいてのぞきこんだ。あごのほぼ真ん中に大きなバンドエイドが貼られているのだった。

「やつをすくおうとしたんだけど、すくえなかったよ」
「すくう? すくってどうするつもりだったの?」
「別に、何も」
「仕事は見つかったの?」
「いや。ここしばらく外に出ていない」
「だろうと思った。あんたってほんと、何考えてんだかわかんない。そんなだから奥さんに逃げられるのよ」
「逃げられたんじゃなくって…」
「それに、そんなだから」
「だから?」
「だから、鍋の中で誰かが泳いでいたりするのよ」
 私は考えこんでしまった。
「また今度、ちゃんと会って話しましょう。それとも、私に会うのがいや?」
「まさか」
「じゃあどうして何か月も会わないで、そのくせ電話だけはかけてきたりするの? あんたって変、絶対変よ。だって、私は…あんたの一軒置いて隣に住んでいるのに!」
 でも、電話のほうがいいと思わないかい? 私はそう言おうとして、結局言わ なかった。

 夜中に私はトイレに行きたくて目覚めた。そして、用を済ませて布団に戻ろうとしたとき、ふと鍋のことを思い出した。私は何かにつまづきそうになりながら暗がりを進み、窓から遠い街灯の光が差し込むだけの台所に行った。そして、鍋の蓋をとった。
 そこは別世界だった。アパートの台所の闇にあって、鍋の中はまばゆいばかりの午後の陽光に満ちていた。ゆらゆらと揺れる水面には一瞬たりとも同じでない光の模様が生まれ、それを透かして見えるのは怖いほどに澄み切った空の青、そしてわきあがる雲だ。かすかに鳥のさえずりが聞こえ、甘い蜜の香さえしたと思ったのは錯覚だろうか。
 男は鍋の海にいた。だが、いつもと違っていたことに、彼は泳いでいなかった。彼は仰向けに身体を伸ばし、ただ浮かんでいた。心持ち眉を寄せているのは、ふりそそぐ光がまぶしいのか。眼を閉じてはいるが、眠ってはいなかった。私が見ていると、彼は上体を起こし、立ち泳ぎのかたちになった。そして、手で顔をぬぐい、髪を後ろになでつけるようなしぐさをすると、ほうっとため息をつき、下を向いていた。それからふたたび仰向けになったと思うと、突然こちらを向いた。私はぎくりとしたが、もちろん男は私を見ているのではないはずだった。やがて男はもとのように真上に顔を向け、いつまでもそのまま浮いていた。

 数日後、私は郊外に向かう電車の中にいた。
 一軒置いて隣に住む女友達に言われたことが気になり、ハローワークにでも行ってみようかと、ひさしぶりに駅に行った。そして切符を買ったまではよかったのだが、いざホームに降りてみると急に気が変わって反対側に来た電車に乗ってしまったというわけだった。
 私は連結器に近いあたりに座り、駅で取ってきた無料の情報紙や付近のマップなど数種類を広げた。妻がいたら「貧乏くさい」と眉をひそめるところだ。だが、いまは私ひとりだからかまわない。私は、真剣に読めばかなり時間を要するそれらの印刷物を、一枚ずつ丁寧にみていった。だから、いつからいたのかはわからない。あの男が----鍋の中の男がいつからそこにいたのか。
 男はドアのそばに立ち、外の景色を見ていた。もちろん、裸ではない。紺色のポロシャツにグレーのズボンを身につけ、右手にはポーチを持っている。だが、うっかり見過ごすには私は彼を知り過ぎていた。ポロシャツとズボンの下にあるのはあの引き締まった身体であるに違いないし、胸毛やすね毛の生え方だって私は絵に描けるほど知っている。太い眉。二重瞼の眼。そしてあごのほぼ真ん中には大きなバンドエイド。
 電車は一つ、また一つと駅に停まり、そのたびに何人かの乗客が降りていったが、男はドアのそばに立ったままだ。私はさすがに読みつくした無料の読み物をなおも読んでいるふりをしつつ、男が降りるのを見逃さないよう注意を怠らなかった。そして、あと少しで終点という、名前を聞いたこともない小さな駅で、ついに男は降りた。私は情報紙やマップを投げ捨て、あわてて男の後に続いた。改札で精算するのももどかしく、男の姿を探すと、駅前の交差点をすでに向こうへ渡るところだ。信号が点滅している。ためらうことなく走って渡ると、思いもかけず男の後ろ姿がすぐ前にある。呼吸を整えながら、少し距離をあけ、私は男の後ろをつけていく。男はポーチを持った右手をかすかに振りながら、歩いて行くあのポーチの中には濃紺の海水パンツが入っているのに違いない。私はわくわく してきた。彼はこれから泳ぎに行くところなのだ。一見したところ、近くに海があるとは思えない。だが、やがて突然視界が開け、途方もなく広い空の下、どこまでも広がる海が現れるのだ。
 道は上り勾配になり、あたりは緑が濃くなり、ますます海とは関係ない雰囲気になってきた。男は途中で煙草を買い、さらに先で自動販売機のウーロン茶を買った。私はそのつど物陰に隠れ、男に気づかれないよう苦心した。
 不意に男が振り向いた。そして、数メートル後ろの私に話しかけた。
「何かご用ですか」
「はい?」
「さっきから私の後をつけておられるような気がするのですが」
 男は落ち着いた口調で言った。私は極度にうろたえた。
「そ、そんなことはありません」
「ならいいのですが。私はそこに勤めておりますので、失礼します」
 男は左手前方に見える低いフェンスに囲まれた建物を指差した。門扉に取り付けられたプレートには会社の名前が書いてあるらしい。勤めている? これから泳ぎに行くのではなかったのか。海水パンツを持っているくせに。私はぽかんとした。そのすきに男はもう門扉のすぐ前に到達していたが、私ははっと我に返るとあわてて聞いた。
「そのポーチの中身は…」
「はあ?」
「す、すみません。ぶしつけなことは承知です。ですが、その、ポーチの中身が気になるんです」
「何だっていいじゃないですか」
 男はぶぜんとして言った。
「見せてもらうわけにはいきませんか」
 男は眉間にしわを寄せ、険しい表情になった。今にも殴りかかってきそうな雰囲気で、私は自分の愚かさを悔いた。だが、私が思いの他真剣だということを感じたのか、彼はしぶしぶポーチのチャックを開き、中身を見せてくれた。そこに入っていたのは、キティちゃんの絵のついた小ぶりの弁当箱だった。
「いいところまでいったんだよ」

 私は女友達に電話で言った。
「人違いだったんじゃないの?」
「そんなことはない。あれは確かにあいつだった。よく分からないけど、多分、僕のやり方がまずかったんだ」
「どうでもいいけどさ、あんた、なんか食べながら話していない?」
「わかる?」
「わかるわよ。どうせコンビニのおにぎりでしょ。ぱりぱりいう音が聞こえるもの」
 その通りだった。
「あんたって本当、無神経なんだから」

  その夜、私は鍋の中の男を改めて観察した。見れば見るほど、あの男に間違いないと思えた。
 私は反省した。ポーチの中に海パンを入れていると、勝手に思いこんだのがよくなかった。ズボンの下に最初からはいていたかもしれないのに。
 鍋の中の男は私の思いなどそしらぬ顔で泳いでいた。急きもあわてもせず、たぽり、たぽり、と水をかいていた。



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