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Novels/小説  地下鉄 (3)


  列車はさらにいくつかの駅を過ぎていった。それらの駅では打って変わって人気がなかった。だれもいないホームで、列車のドアはただ開き、そして閉まった。それはそれで、普通ではなかった。そのあたりは都心部にあたっており、普段なら最も乗り降りが多いはずなのだ。私の緊張は解けることがなかった。

 不意に私は誰かに腕をつかまれた。私は飛び上がった。思わず叫ぼうとしたその口を手でふさがれた。
「大きな声を出さないで」
 それは妻だった。いや、正確にいうと元妻だった。
「きみ」
 それだけ言うと私は胸がいっぱいになった。三年間、私はどれほど妻に会いたかったことか。私は妻と別れたくなかった。だが、妻は私を捨てて別の男と暮らすことを選んだのだ。私は妻を抱き締めた。
「時間がないの。早口になるけど、よく聞いて」
「地上ではいったい何が起こっているんだ」
「革命よ」
 私は目を丸くした。
「知らなかったみたいね。そういう人なんだわ。あんたって」
「誰が首謀者なんだ」
「ひとことでは言えないの。ここまで来るには何年もかかったのよ。大勢の人がいろんなところで複雑にからみあっているわ。簡単な説明がほしけりゃいずれ誰かがWikipediaにでも書く。それを読めばいいわ」
「それで、君は」
「これをあなたに預けておくわ。絶対誰にも渡さないで。私か、私にもしものことがあれば私の代わりの人間が取りに来るまで」
 それは二つに折った紙切れだった。何かのチケットくらいの大きさだった。
「もしかしたらそれを持っているためにあなたはとてもつらい目に遭うかもしれない。でも、隠し通してほしいの。あくまでしらをきってほしいの。たくさんの人の運命がそれにかかっているのだから。できるわよね」
「もちろんだとも」
 私は何度も何度もうなずいた。妻は目に涙をためて微笑んだ。
「そう言ってくれると思ったわ。あんたのそういうところが好きよ」
 よく見ると妻はひどいかっこうをしていた。ブラウスもスカートも泥だらけでストッキングもはかない素足にスニーカーをはいていた。束ねた髪がほどけかけてくしゃくしゃだった。それでも私は妻を美しいと思った。それは私が妻を欲しているからだ。
「君はどうするんだ」
「逃げるわ。逃げ切れるかどうかわからないけど」
「あいつも一緒なのか」
 私は妻と一緒に暮らしているはずの男の名を言った。私は別れてから一度だけ妻を町の中で見かけた。その時妻はその男と寄り添って歩いていたのだ。でも、妻はたちまち不快そうな顔をした。
「あいつは敵側の人間よ。あいつは私を裏切ったのよ」
 妻は立上がり、去って行こうとした。
「待ってくれ」
 私は妻をふたたび抱きしめ、キスした。唇から頬、首筋からあちこちに。だが妻は強い調子で「やめてちょうだい」と言った。それで私はやめた。あまりしつこくしては嫌われてしまう。
「ごめんなさい。今は時間がないの。ほんとに」
 言いながら妻はもう走りだしかけていた。私はふと思い出して聞いた。
「きみは田川君を知っているのか」
「知らないわ。なに。その人」
 妻はあっというまにいくつもの車両の中を駆け抜けていった。私はシートにすわったまま妻の後ろ姿を見送った。だが、いつまでも感傷にふけってはいられなかった。私は今や重大な任務を帯びてしまったらしいのだ。

 次の駅で列車が停まり、ドアが開くと同時に叫び声が前のほうであがった。私ははっとして思わず腰を浮かした。その声は妻の声によく似ていたからだ。何人もの乱れた足音と怒号、どさっと重い物が落下するような音などがそれに続いた。妻は捕まってしまったのだろうか。私は自分が青ざめ、冷や汗を流しているのがわかった。足元から力が抜けていく。これが夢とか「どっきりカメラ」か何かならどんなにいいだろう。だが、緊迫した空気が続くばかりで、いつまでたっても「どっきりカメラ」と書いたプラカードを持ったタレントは現れそうになかった。
 やがて列車が動き出すと間もなく、荒々しい足音が私のほうに近づいてきた。私は本能的にさっきの紙切れをシートの破れ目に突っ込んだ。
「その男を調べろ」
 190センチはあるかと思える大きな男が私のほうを顎でしゃくって示し、部下らしい男たちに命令を下した。みんな作業服のような薄汚れた服を着てヘルメットを被っている。それだけでは配線工事の作業員か何かのようであるが、違うのは全員が何がしかの武器を持っていることだった。多くは鉄パイプや棍棒であるが、リーダー格の大男はさっきの田川君と同じく銃を持っていた。男たちは私の腕をつかんで立たせた。ショルダーバッグが膝の上から床に落ち、箸箱ががちゃっという寂しげな音をたてた。
「あの女から何か受け取っただろう」
「何か、というと」
「とぼけるな」
 男の拳が飛び、次の瞬間には私は床の上に転がっていた。眼鏡が二メートルも先に吹っ飛び、それを取ろうと延ばした手をごつごつした靴底で踏まれた。痛いと思うまもなく私の全身は猛烈な打撃を浴び、乱暴に引き起こされたと思うとまた床にたたきつけられ、蹴られた。声も出ず、うめいていると、リーダー格の男が冷たい声で命じた。
「裸にしろ」
 たちまち部下たちの太い腕が何本も伸びてきて、私の体から衣服をはぎとりにかかった。私は抵抗したが、さらに何回か殴られただけのことだった。背広の上着が、ズボンが、ワイシャツがむしり取られ、それらは男たちによって入念に点検された。それでも探しているものは見つからなかったので、私はアンダーシャツを取られ、ズボン下を引き下ろされ、ついにはトランクスも脱がされて文字通りの素っ裸にされた。男達は裸の私を足で蹴って仰向けにしたり裏返したりした。
「どこに隠した」男のひとりが怒鳴ったが、私は応えなかった。誰かが私の裸の尻をぐりぐりと踏みつけた。別の誰かが唾を吐きかけた。だが、結局何も出て来ないと知ると、大男は舌打ちをした。
「こっちにも何もありません」
 バッグを調べていた男が言った。
「弁当箱と箸箱。それに文庫本が一冊だけです」
「文庫本の間に隠してなかっただろうな」
「調べましたがありません」
 大男は床の上に裸で転がっている私を見下ろして言った。
「こいつがあの女から例の物を受け取ったというのは確かなんだろうな」
「…そのはずだったのですが、人違いかもしれません。とてもそういう大胆なことができる人間には見えませんし」
「あの女とこの車内でキスをしていたという情報があったのですが」
「ただの痴漢かもしれないぞ」
 だれた雰囲気の笑いがひろがった。私はただ黙って横たわっているだけだった。

 間もなく男たちはあっさりと引きあげていった。まわりがやたらとしんとしているのはどこかの駅に停車しているらしい。いったいいつ停まったのか、ここがどのあたりなのかも私にはよくわからなかった。私はゆっくりと起き上がり、あたりに散らばった衣服を集めて身につけ始めた。体を動かすたびにあちこちに激しい痛みが起こり、私は顔をしかめた。ふと見ると、隣の車両から小学校二、三年くらいの子供がじっと私の方を見ているのに出会った。私が見つめ返すと、子供はあわてて走って行った。

 すっかり服を着終えると、それに合わせたように列車のドアが閉まり、がくんと小さく揺れて列車は走り出した。私はさっきすわっていたところに戻り、もとのようにショルダーバッグを膝の上にのせてすわった。シートの破れ目を手で触ってみると、例の紙切れがちゃんとそのままになっているのがわかった。ほっとすると同時に私の両眼からはらはらと涙がこぼれてきた。それは発作のように激しく、後から後から出てきてとめようがなかった。ついには私はおいおいと肩を震わせ、顔もおおわずにただただ泣きじゃくっているのだった。私はいくらでも泣けた。その車両にはやはり私ひとりだったし、ごおごおという音は私の嗚咽をすっかりかき消してくれるのだから。

 やがて、発作が突然とまるように、私の涙もまたぴたりととまった。私はポケットからティッシュを取り出して鼻をかみ、それからうそのように平静な気分にもどっていくのを他人事のようにみていた。

 列車はまたいくつかの駅に停まった。それらの駅のホームでは普段と変わらぬ穏やかな光景が繰り広げられていた。異変はこのあたりにまで及んでいないのだろうか。しかし、遅かれ早かれ時間の問題だろう。私は自分に課せられた重大な任務のことを思った。たとえ何があろうと私はあの紙切れを守り抜かなければならない。私は妻を---別れた妻を、いまも誰よりも愛しているからだ。
 一人、二人と人が乗り込んできたが、傘を手にしてはいるもののあまり濡れて
いないようだ。さらに先の駅になると、もう人々は傘を持っていなかった。
 このあたりでは雨が降っていないらしい。それとも、降っていたのがやんでしまったのか。 私は自分の気持ちさえ次第に普段と変わらなくなっていることに気がつき、少し不安を覚えた。前の方から巡回してきた車掌に、私は聞いてみる。
「あのう」
「はい。何かご用で」
「革命はどうなったのですか」
「はあ?」
 車掌は間の抜けた声を出した。

「何とおっしゃいました」
「ですから、その…革命なんですが」
 車掌は私の顔をまじまじとのぞきこみ、それから首をふりふり前の方へ戻って行った。

 私はしばらく窓の外の闇を眺め、ごおごおという音を聞くともなく聞いていた。列車は今は二十三番目の駅に向かっていた。それはこの路線の北の端の駅で、地上にある。列車はだから、ゆるやかな勾配をのぼっているはずであるが、乗っているものがそれを感じることはほとんどない。だが、私にはうすみどり色の空気が少しずつ稀薄になっていくのがわかる。 やがて、列車はまばゆいばかりの地上に出た。うすみどり色の空気はもうない。音さえもがたん、がたんという平凡な音になり、それは急速に緩慢になり、そして、止む。間延びしたアナウンスが、ここが終着駅であることを繰り返し告げ、ドアが開く。

 私はまだすわったままだ。私はさっき起こったことを思い返している。妻や母はどうなっただろう。そして、田川君は。私の服にはところどころに汚れがついているし、首や肩にははっきりとした痛みが残っている。私はふと、シートの破れ目に手を入れ、例の紙切れをそっと取り出してみる。だが、私がそれを手に持ち、ひろげてみようとするとそれはまるで灰でできた紙のようにぼろぼろとくずれ、指の間から細かな粒となって落ちていくのだった。 私は仕方なく立ち上がった。
 明日もまた、私は地下鉄に乗ろうと思う。

(了)


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