はじめ彼はとても緊張していた。彼を包む厚紙とその外側の花模様が印刷された化粧紙がぴんとはりきっていたのと同じように。
 不意に手が彼にのび、包装を解く。
 つるりと紙を離れた彼は外気のさわやかさを味わう間もなく、ただちに濡れた指でなでられ、湯を浴びせられ、布地にこすりつけられた。彼は驚いた。でも、そんなもんだろうと思った。
 浴室には湯気が満ち、天井の電球の明かりがにじんで見えた。ざあざあと湯を汲んでは流す音が絶え間なく響いた。

 いろいろな手が彼をつかんだ。ごつごつした手は彼を荒っぽくつかむとせわしなくタオルにこすりつけた。泡立ち方に不満があるのか、舌打ちをした。彼は一生懸命泡を立てた。女のほっそりした手に包まれ、両手で何度も何度もなでられたときはどきどきした。小さな子供の手につかまれたと思うとたちまち落っことされて、体に傷ができたこともある。でも、その傷はすぐに癒えた。ほっそりした手がまた彼を包み、何度もなでたからだ。彼の体は女の手の中でとけ、女の手は真っ白な泡で包まれた。

 小さな子が浴室で突然泣き出したこともある。
「どうしたの?」
「いたい、いたいの」
「ああ、せっけんが、目に入ったのね」
 子供はながいこと泣き止まなかった。彼はおろおろするばかりだった。

 そうして彼はどんどん小さく、薄くなっていった。

 彼は自分自身を見ることはできなかったが、少しずつ体が軽く、寒くなっていく気がした。そして、「さびしい」と思った。どうしてそんなふうに思ったのかわからない。女の手が彼をなでているときでも、彼はそう感じるのだ。たぶん、彼の心もすりへっていったからだろう。

 さらに彼は薄くなり、小さくなり、もう今にもばらばらになりそうになった。彼は最近とろとろと眠っていることが多くなった。

 眠りからさめて思い出すのはさまざまな手。ごつごつした手。やわらかな女の手。てのひらにまめのある手。それらに抱きしめられた日々のこと。

 そのときも彼は、夢ともうつつともつかぬ中にいたが、あの親しんだほっそりした手が彼をすくいあげた。そして、すっかり小さくなった彼をしばらくなでまわしていたと思うと、新しいせっけんに押しつけ、やわらかい布にこすりつけた。
 彼の弱々しい意識に変化が起きた。彼の体はいまや他者に密着し、とけあい、泡立ち、ひとつになろうとしていた。別の意識が彼の中に侵入してくるのがわかった。彼は混乱した。でも、もうどうしようもなかった。(ぼくはだれ?)(ぼくはどこにいるの?)(ぼくはなくなっていくの?)(なくなるんじゃないよ、ひとつになるんだ)(きみはだれ? なんだかさむいよ)(ぼくはきみ、きみはぼくになる)(ああ、からだがとける)(うまれかわるんだ)(うそみたいだ)(さあ、ひとつに)(ふしぎ)(ぼく)(こわい)

 彼とそっくりなせっけんが、せっけん箱に横たわっていた。とても緊張していた、あのころの彼とそっくりな。

 

   

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