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Novels/小説  箸


箸 


 ある家の台所の引き出しに、お菜箸がふた組入っていた。
 もう何年も前に(ひょっとしたら十年以上前)ふた組セットでこの家に買われて来たのだ。ひと組は長く、もうひと組は短い。すっかり使い込まれてどちらも茶色く変色し、先のほうはちびて丸くなっている。みかけは似ているけど、でも長さがちがうからまちがわれることはない。
 いま、便宜上長いほうのひと組を長ペア、短いほうのひと組を短ペアと名づける。読み方はそれぞれ「ながぺあ」「みじかぺあ」である。
 長ペアも短ペアも、なかむつまじく暮らしていた。
 ところがある日、この家の奥さんが卵焼きをつくった。

 ここだけの話だが、ここの奥さんは卵焼きが苦手である。本人もそのことを自覚しているので、わざわざ晩ご飯に(おかずが他に十分あっても)卵焼きを焼いたりする。何度も練習すればそれだけうまくなるはずだと思っているのだ。でも、はっきりいって手際が悪い。卵を流し込んでから「えーっと、次はどうするんだっけ?」と考えたりするんだから。

 その日もそうやってぐずぐずと卵焼きを作っているときにだんなさんが声をかけた。
「おおい、ちょっと見ろよ。パンダが寝ながらくしゃみしているぞ」
 奥さんはつい卵焼きを忘れてテレビのほうを見た。次に気づいたときはこんろのそばに置きっぱなしにしたお菜箸に火がついていた。奥さんはあわててお箸を取り上げると、ふうっ!と息を吹いて火を消した。でも、そのときには先のほうはすっかり燃えて炭になっていた。
「なんか焦げ臭いぞ」
「うん、お箸の先っぽが燃えて・・・ずいぶん短くなっちゃった」
 奥さんが炭の部分を取り除いて二本のお菜箸をそろえてみると、明らかに二センチほども短くなっていた。それは長ペアの夫だったのに、今や長・夫は短ペアの二本と変わらなくなってしまったのだ。

 長・妻は悲しんだ。それまでいつも夫と一緒だったのに、ときどき間違われるようになったから。
 四本のお菜箸のうち三本は同じような長さである。この家の奥さんは長さが合えばいいと思っているから、時には長・夫と短・妻を平気で組にして使う。長・妻は気が気でない。
「あなた!」
「おまえ!」
 ふたりが悲痛な叫びをあげても、この家の奥さんには聞こえない。もちろん、短・妻も怒りに満ちた視線を投げかける夫に必死で身の潔白を訴えるのだが、むなしい。
 また別の時は長・夫と短・夫がセットで使われた。
「何の因果であなたと私が」
「それはこっちが言いたいですな」
 ふたりの男は終始顔をそむけ合ってぷりぷりしながらお芋に突き刺されたり、魚をひっくり返させられたりした。
 長・妻はなんとなく使われないことが多くなった。ひとりだけ違う長さだから。

 ところがまたある日、この家の奥さんが卵焼きを作った。
 どういうものかこの日の箸は長・妻と短・妻の組み合わせだった。その箸を使い、考え考え卵焼きをつくっていると、だんなさんが声をかけた。
「おおい、見てごらん。このオランウータン、隣のご主人にそっくりだ」
「あらま、ほんと。それ、隣のご主人のご親戚か何かじゃない?」
 で、気がついたときはまたお箸の先っぽが燃えていた。奥さんはあわててふうっと火を消したが、長・妻が二センチほど短くなってしまった。
「おまえは卵焼きをつくると必ずお箸を燃やすね」
「あなたがよけいなことを言うからよ!」
「しかたないだろ、そっくりなんだから。それはおまえも認めたじゃないか」
「それはそうね」

 そういうわけで、四本のお箸はみんな同じくらいの長さになった。
 この家の奥さんは一瞬喜んだ。なぜって、どれとどれを組み合わせても同じだからだ。最初からこうだったらよかったと思ったくらいだ。
 でも、お箸のほうはたまらない。長年、なかむつまじく暮らしてきたふた組のカップルが、いまやそのような過去を否定され、個性を否定されて「そんなことどうでもいい」みたいな扱いをされてるわけだから。これではお箸の尊厳も何もあったもんではないではないか。
 長・妻は愛する夫がよその女やよその男とペアにされているのを見るたび、胸がはりさけそうだった。それは長・夫も同じだったし、短ペアにしたっておだやかではなかった。
「ほんとにむかつくったら」
 短・妻は聞こえよがしに言った。
「焦げたやつなんかと一緒にされたくないわ」
「まあまあ、おまえ」
 引き出しの中は常に気まずいふんいきが漂っていた。

 この家の奥さんがこぼした。
「なんだか最近お料理がうまくいかないの」
「というと」
「たとえば、野菜を炒めるとするでしょ。お箸が変に重くて、うまく炒められないの。この間はとんカツを揚げてる最中に裏返そうとしたら、二本のお箸がてんでばらばらのほうを向くもんだから、もうちょっとでフライパンごとひっくり返してしまうとこだったわ」
「それは年のせいだと思うね」
「どうせ私はあなたより年上よ!」

 どうかどうか、また夫と一緒に暮らせる日が来ますように。
 長・妻は祈った。だれに祈ったといわれても困るのだけど、一生懸命祈れば、きっとそれはかなえられると思っていた。なぜなら、夫が焦げて短くなったとき、彼女は自分も同じように焦げて短くなりたいと祈った。その祈りが通じて、あの日本当に焦げることができた。少なくとも、長・妻はそう信じているのだ。 

 それは春風が吹く日曜日だった。

 たまたまこの家の奥さんが手にしたお菜箸は長・妻と長・夫のペアだった。
「あなた!」
「おまえ!」
 ふたりはひさしぶりに一緒にいられることを喜んだ。ああなんて、幸せなんだろう。ふたりで同じ鍋の中にいられること、ふたりして力を合わせてかれいをひっくり返したり、たけのこをつまみ上げたりすることは。

 この家の奥さんが言った。
「ねえ、あなた」
「なんだい」
「今日はとってもお料理がうまくいくの」
「ふうん」
「これって、お箸のせいかもしれないわね」
 最後の言葉を奥さんはひとりごとのように言った。
 そしてその後、四本がごちゃごちゃになる前に、奥さんはお箸に印をつけた。長ペアの二本には赤い糸を、短ペアの二本には青い糸を、それぞれ上のほうにていねいに巻きつけたのだ。これでもう間違えたりしない。たとえ、また卵焼きをつくって、またお箸を焦がしたとしても。

 そういうわけで、その後ふた組のお箸は幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし。



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