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Novels/小説  地下鉄


地下鉄


 地下鉄にはうすみどり色の空気が満ちている。
 それは、地下鉄について私がまっさきに思いうかべることのひとつだ。

 私は事務機器を取り扱う会社に勤めるサラリーマンであり、毎日地下鉄に乗っ て通勤している。私が乗る駅から降りる駅までには、都合二十三の駅がある。ず いぶんたくさんだと思われるかもしれないが、その通り、これは南北に走るこの 路線の全区間である。私の家は地下鉄の南の端の駅に近く、会社は北の端の駅に 近いのだ。

 地下鉄の端から端までの所要時間はおよそ五十分である。その間、私はどうや って過ごしているかというと、特に何もしていない。車内はいつもすいており、 私がその車両にたったひとりでいるということも珍しくない。各車両の端には二 人掛けのシートが向かい合った形になっているコーナーもあって、そこなら普通 の長椅子にすわるよりも落ち着くだろうと思う。私はその席にすわって、たとえ ば本を読んだり、最近流行りのノートパソコンなど操ってみてもおかしくはない  のであるが、実際には何もしない。

 私はたいていの場合、七人掛けのシートに腰を下ろし、時たま居眠りをする以 外はぼんやりと窓の外を眺めている。それは当然ながら闇である。完璧な闇では なく、ぼんやりと壁面が見えたり、そこに何かの配線が一瞬浮かび上がることも ある。使われていない通路のようなものもそこここにあるようである。だが、そ れらはごおごおという騒音とともにみるみる後方に飛び去り、闇の中にとけてし まう。しばらくすると、嘘のように明るい駅のホームが現れ、列車はスピードを 落として停車する。わずかの人々が乗り降りした後、列車はふたたびごおごおと 闇の中を疾走する。

 私はそれらをただぼんやりと眺めている。そのうちに私は、自分の乗っている 列車がどちらを向いて走っているのかわからなくなる。いや、そもそも走ってい るのかとまっているのかさえ自信を持って断言できないような気持ちになる。私 のまわりにあるのはただごおごおという音と、ほとんど何も映し出さない窓。そ して、すべてを包み込むうすみどり色の空気だ。私は思う。自分はいつから、こ の地下鉄に乗っているのかと。それはついさっきからのようでもあるし、もう何 年もこうして乗っているようにも思える。これから会社に行こうとしているのか それとも家に帰るところなのか。私は昨日もこうしていたし、明日もこうしてい るだろう。だが、昨日とはいったいいつだったのだろうか。その時私は感じる。自分が何かばらばらなものの寄せ集めであることを。自分の体に重さというもの がなくなり、どこへでも----昨日にでも、明日にでも----漂っていけるのだとい うことを。ここでは何でも起こり得るのだということ、だが、同時にそれは何も 起こっていないということであるかもしれないことを。

 私はそのようにして、地下鉄の時間を過ごす。それは私の幸福な時間でもある。
 私はいつも、ショルダーバッグを膝の上に載せ、足を軽く組んですわっている。 車内はすいているからバッグを膝の上に載せなくてもよいのだが、そうしてしま うのが私の性分なのだ。バッグの中には弁当が入っている。自分で朝、詰めてき たものだ。私は三年前に妻と離婚した。
 二つ目の駅でドアが開くと、五十代と思われる背広姿の男が傘を手に乗り込ん できた。男は車内を見わたし、私しかいないのを見届けた。それから隣の車両も がらがらなのを見ると、そちらに移動していった。傘からぽたぽたと水滴をたら しながら。
 地上は雨が降っているのか。
 そういうこともあるのだ。文字通りここは地下で、地上の様子がわからない。 地下にもぐる前は晴れていたのに、出てみると土砂降りだったとか、その反対の こともよくあるのだ。
 三つ目の駅では学生風の男が乗り込んできた。ジーンズの膝から下がぐっしょ り濡れ、スニーカーは色が変わっている。手には傘を持っているが、それもたい して役に立たなかったらしい。
 雨はいっそう激しくなったようだ。

 学生風の男も傘からだらだらと水を滴らせ、靴底をぐちゃぐちゃといわせなが ら、隣の車両に移っていった。私は相変わらずたったひとりでその車両にすわっ ていた。
 四つ目の駅では誰も乗って来なかった。ドアは開き、またむなしく閉じた。私 は少しうとうとした。それでも完全に眠ってしまうことはない。頭の中には常に ごおごおという音が渦巻いているからだ。

 五つ目の駅に着き、ドアが開いた。途端にホームのざわざわとした空気がなだ れこんできた。乗換え駅にあたっているので、もともと乗り降りが多い駅ではあ るが、それだけではないような気がした。はっきりとはいえないが、何か混乱の 気配がある。しかし、私の思い違いかもしれない。

 隣の車両には何人か乗り込んできたようだが、こちらには誰も乗ってこない。 よく考えると、私の乗っている車両は最後尾なのだ。もっと前のほうに乗ってい たらよかったと思うが、私の消極的な性格のせいで、いつも一番後ろに乗ってし まう。

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