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Novels/小説  地下鉄 (2)


 次の駅では、それでもひとりが乗ってきた。かなり年をとったジャンパー姿の男で、全身ずぶ濡れだった。傘は持っていず、あちこちに泥がついていた。単に雨の中にいただけでなく、転んだのか、それとも路上で格闘でもしなければそんなに汚れはしないだろうと思えた。「何かあったのですか」

 私はおずおずと聞いてみた。
「知らないのか」
「はあ」
「----だよ」 男はばかにしたように言い捨てたが、私にはかんじんのところが聞こえなかった。聞き返そうと思った時には、男は隣の車両に移っていた。やれやれと私はため息をつき、男の右目の上に血がにじんでいたことを思い出した。

 七つ目の駅ではもう大変な騒ぎだった。だが、誰ひとりとして乗って来る者はいなかった。大勢の人々がホームに集結し、リーダーらしき人物が何かわめいている。それにつれて人々の喚声が沸き起こる。こぶしを突き上げる者もいる。みんな口々に何かを必死で言っているのだが、それは構内にわんわんとこだまするばかりで聞き取れない。駅員が出てきて、「危ない」とか「列車が」とか言って何とか群衆を整理しようとしていたが、やがてとても無理なことに気づき、去っていった。ドアが閉まり、列車は走り出したが、私は気が気でなかった。いったい、地上では何が起こったというのか。朝刊はもちろんのこと、今朝の七時のニュースでも何もそれらしいことは言ってなかった。私が家を出て、地下鉄の駅に着くまでの間も何も変わったことはなく、それは退屈なくらいの朝であったのに。

 やがて列車は次の駅に着き、がらりとドアが開いた。途端にわあっというざわめきが耳に飛び込んできた。そして、それらの中に赤ん坊の泣き声と、それを叱る母親のヒステリックな声、誰かが誰かを呼ぶ声、あわただしくホームを駆け回る靴音などが交錯する。完全にパニックだ。私は胸がどきどきしてきた。こんなふうにじっとすわっていていいものか。その時、私は群衆の中に母を発見する。半分以上白髪の頭に手編みの毛糸の帽子をかぶり、見覚えのあるカーディガンをはおっているその年老いた女は母に相違なかった。私は思わず立ち上がり、ホームに降りようとしたが、その時ドアが閉まった。私は鼻先で閉まったドアを手でこじあけようとしたが、ドアはびくともしない。

 私はそれでまた、元のようにすわりなおした。しかし、なぜ。父と母の住む実家はさっきの駅からかなり離れているのに。いや、しかし、地上では相当大きな事件が起こっているらしいから、交通事情も一変しているのかもしれない。それより、さっきの母は疲れきったような表情をしていたのに、もっと早く気づいてそばに行ってやるべきだった。父はどうしたのだろう。次の駅で引き返そうか。いや、さっき母だと思ったのは赤の他人であったかもしれない。私はしょっちゅう年をとった女を見ると母と勘違いしたりするのだ。ごおごおと走る車内で、私の思いは千々に乱れる。自分が眉間にしわを寄せ、なさけない顔をしているのがわかる。いらいらしているので、つい貧乏ゆすりをしてしまう。

 どか、どか、と何か頑丈な靴をはいているらしい足音が近づいてきた。音のするほうを振り向くと、大きな体の男たちが三人、隣の車両からこちらにやってくるところだった。なんと、三人とも迷彩服を着て、先頭の一人は銃らしきものを持っているではないか。私は仰天した。しかも、その顔を見ると、高校時代、同級生だった田川君ではないか。私はまた仰天した。もっとも向こうは気がついていないらしい。私は当時より髪が薄くなったうえに眼鏡をかけるようになったからだ。それに、去年二十五年ぶりにあった同窓会にも出席しなかった。田川君のほうは昔とあまり変わっていないのですぐにわかった。それにしても、いよいよこれはただごとではない。三人の男たちは私のいる車両をなめまわすように見ていたが、田川君が他の二人に何かを小声で指示し、やがて三人ともまたもとのほうへ戻って行った。田川君に聞けばいろんなことがわかるのかもしれない、と思いながら私はやはり声をかけなかった。もし名乗るとしたら同窓会に欠席した不義理をわびたり先生は元気かと聞いたりしなければならないだろうし、それはこの場にはそぐわない。かといって、いったん同級生とわかった者に知らん顔をするのは気がとがめる。あれやこれや考えた末のことだったのだ。

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